工大生のメモ帳

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【小説】幻の女 感想

※ネタバレをしないように書いています。

忘れられない夜

情報

作者:村上春樹

翻訳:黒原敏行

試し読み:幻の女〔新訳版〕

ざっくりあらすじ

妻と喧嘩した男は当てなく街をさまよって、風変りな帽子をかぶった女性と出会い、「お互いの詮索は一切しない」と約束を交わして、食事を共にし、劇場でショーを見て、酒を飲んで別れた。彼が家に帰ってみると、妻が首を絞められて亡くなっていた。彼は自身のアリバイを証明してくれる風変りな帽子をかぶった女性を探すが……。

感想などなど

「古典ミステリは古めかしくて面白くない」そんなイメージをお持ちの方はいらっしゃるのではないだろうか。このイメージは、名作は後世の作品でたくさん真似されて目新しさがなくなってしまったが故であることが多い気がするので、これは避けられない事なのかもしれない。

そんな古典ミステリの中でも名作として語り継がれ、もしかしたら名前だけは聞いたことがあるかもしれない本著『幻の女』。新訳版が出てくることからも、名作として語り継がれていることは分かってもらえるだろう。

その理由として、「古典ミステリ」でありながらその展開に古めかしさがないということを挙げたい。

時代としてネットなどがなかったり、監視カメラが珍しくない現代なら起こりえないとか、そういった意味での古めかしさはあるが、前提としてそこが気になってしまう方は読めない。まぁ、これは古典が持つ魅力ともいえると思うのだが。

ミステリに限らず本として、読む/読まないを二分してしまうのは冒頭部分だ。本著はこの冒頭があまりに魅力的だ。

夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。むこうからやってくる彼の顔の顔が不機嫌なのは、かなり離れたところからでもわかった。

上記は冒頭の一文である。ミステリーとは一見すると分からないくらい詩的な表現で、事件が起こる夜が描かれていく。どうやら妻と喧嘩したらしい男が、夜の町を当てもなく歩き回って、時間を潰そうとしているらしかった。

そこで彼は風変りな帽子をかぶった女性と出会う。女性の描写は下記の通り。

普通ではないのは女の帽子だった。パンプキンにそっくりなのだ。形と大きさだけでなく、色まで似ていた。炎のようなオレンジ色はあまりにも鮮やかで、目が痛いほどだった。庭園パーティで低くつるされたランタンのように、カウンター全体を明るく照らしているように見えた。

場所は男がたまたま入ったバー。妻と一緒に行く予定だったが、喧嘩によっていけなくなってしまった劇場のショーに彼女を誘う流れとなる。ミステリーというメタ読みをせずに読めば、ちょっと不思議な出会いから始まる大人な一夜として楽しめる物語だ。

しかし、ここで終わらない。この夜の物語の全てが後から繋がってくる。

 

事件は彼と風変りな帽子をかぶった女性が過ごしている間に、妻が殺されたらしい。帰宅すると警官がいて、取り調べを受け、喧嘩していたこと。男が不倫していたこと……などなど怪しい要素しかない男は逮捕されてしまう。

しかし、彼にはアリバイを証明できる自信があった。

それこそ冒頭で描かれた一夜の出来事を証明すればいいのだ。彼は風変りな帽子を被った女性との会話の中で、時間を確認していたり、その話題をバーのバーテンダーに振ったりしていて、その辺りの証言を聞ければ良い。

酔っていたとはいえ、彼は自身が彼女と出会って別れるまでの流れを覚えていて、その先々で "出会ったはずの人たち" に話を聞いていく。しかし、皆が口をそろえて言うのだ。

彼は一人で過ごしていた、と。

そう、誰も彼のアリバイを証言してくれる者が見つからなかったのである。

この誰からの証言にも出てこない風変りな帽子をかぶった女性……つまりは幻の女を探すために、妻殺害の容疑で死刑判決を受けた男の友人が立ち上がった。

 

この物語の魅力はここまで描いたように魅力的な謎と、その解決に迫っていながら次々と発生する連続殺人事件によってグイグイと引き込まれていく展開にある。

先ほども書いたように、死刑判決を受けてしまった男のために奮闘する彼の友人は、警察が話を聞いていない証人を探しつつ、幻の女がいた痕跡を探した。しかし、警察に女がいたという有力な証言をしてくれそうな人を見つけても、そのすぐそばから死んでいってしまう。

それは偶然なのだろうか?

一見すると事故死のように見える連続な死。あまりにも不運だと嘆く友人の男であったり、男の不倫相手(一緒に捜査に協力してくれる)だったが、それにしたって連続で死に過ぎている。

車に轢かれたり、階段から転げ落ちて首の骨を折ったり、窓から落ちたり……そのどれも事故死に見えるが、本当に事故死なのだろうか?

幻の女はどこにいるのか?

どうして隠れているのか?

犯人は誰なのか?

それらの謎が一気に解決され、怒涛の伏線回収がされていく最終章は圧巻である。ミステリ不朽の名作というフレーズに相応しい名作であった。